その人を街で見かけたのは本当に偶然だった。
学校が終わった後に行くはずの塾をサボって遊んだ帰り道、その人は人波の中で一つ抜きん出た気配を持って先を歩いていた。適当に結んだ髪の毛が揺れていて、気がついたらヒノエはその毛先を追って歩いていた。
「……ここって」
安っぽいネオンサインがちかちかと視界の隅で瞬いている。レンガの壁が地下へと延びていて、薄汚れた扉が見えた。階段の両脇にはいつ張ったとも知れないチラシが風にめくれ上がり、それがまたなんだか異様な雰囲気を醸し出している。
しかしヒノエが後をつけていた人物はこの中に入っていったのだ。白いシャツがここで消えたのを覚えている。栗毛の髪が歩調に合わせてくるんと一回跳ねて、階段を下りていった。ちらと見えた横顔が鼻歌歌うように上機嫌だったのも覚えている。
店の名前はバドというらしい。飲み屋であるのは何となく分かるが、ヒノエは躊躇せずに階段を下りた。
毎日に飽き飽きしている。簡単に出来てしまう勉強も、親の体裁から通っている塾も、寄ってくる女達も。
何か刺激があればいい。
それだけしか考えていなかった。
「うわっ……」
ドアを開けた途端、むうっとむせ返るほどの煙草の煙と音楽に包まれた。そこでようやくここはジャズバーなのだと気付く。適当に配置されたテーブルがざっと見て七個ほど。ごった返すというほど人がいるわけでなく、程よく落とされた照明の中でウェイターがゆっくりとこちらを見た。
「お帰りなさいませ」
「……」
「誰かお知り合いの方がいらっしゃるのですか?」
「……まぁ、そんなとこです」
ウェイターはよく教育されている。白いシャツに黒いサロンを巻いて、上品な口調でそういわれたのはきっと、ヒノエが無意識のうちにあたりを見回していたからだろう。それか、未成年を追い出す前置きなのかも知れない。
「どなたでしょうか?よろしければ、お知らせいたしますが」
「あ……藤崎、っていうんですけど」
「藤崎様でしたら、あちらに」
苦笑したのか、ウェイターが静かにさした先は、ピアノだった。
「あ」
驚きの表情を素直に出したヒノエは、ようやく年相応の表情を見せた。癖のある赤い髪が揺れて、瞳の中に映ったのは――背中を追っていた、藤崎秋野の姿。長い前髪が彼女の表情を隠し、暗めの照明も手伝って細かなところまでは分からないが、確かにその人だった。
流れる音楽のトーンが急に変わって、ウッドベースの男性に顔を向ける。口元が笑っていて、本当に楽しそうなその顔は、塾で見せる彼女の顔とはかけ離れていた。
無表情でテキストを手に持ち、淡々と授業を進めていく横顔と、向けられる音に愉快そうに返す横顔と。
――へぇ……
あんな顔もするのかと思わず感心してしまったヒノエは、曲が終わったことも藤崎が近付いていることも分からなかった。彼にしては珍しいことである。ぐ、と強く腕を掴まれてオーダーを邪魔されて、やっと分かったのだ。
「何してんの、アンタ」
「先生」
「お前さぁ……今日サボってなにやってんだと思ったら」
「先生こそ、こんなとこで弾いてたんだ?」
「……何オーダーしたの」
バーのカウンター内にいる人物に飲み物を聞き、ヒノエはまずいという顔を作ったがもう遅い。白いてに軽く叩かれたあと、藤崎は険を含んだ口調で勝手に変更を申し出る。
「ペリエに変えてもらえます?悪いけど」
「ちょ、先生!」
「アンタさ、ここでばれて誰が責任取ると思ってんの?」
「……」
そういう藤崎の手にはちゃっかり黒ビールが握られている。咎めるような視線に気がついたのか、彼女はふんと鼻で笑って「アンタに酒なんか半世紀はやい」とそっけなく言ってきた。
ヒノエの肩を引いて壁際のほうに移動すると、さっきのバンドメンバーのまま、今度はサックスを主旋律にした曲が始まる。サックスを持っている。姿のいい男が片手を挙げて藤崎に挨拶してきた。それを、やはり片手を挙げて答えた彼女は、溜息をつきつつ壁に体重を預けた。
「子供が来るとこじゃないってわかるでしょ」
「……悪かった」
ペリエのビンに直接口をつけるのと同時だった。ヒノエの背中のほうに複数の気配を感じたかと思うと――
「あっれぇ?秋野?何か可愛い子連れてるじゃん」
と明るい女の声がした。
「教え子」
「……どうも」
「へぇーえ、珍しい。連れてくるなんて。ね、君、何て名前?肌綺麗!」
「どうしてもって駄々こねるからさ。でももう帰るんだよね、藤原?」
「……え」
「なぁんだ、残念。また来てね?そのときは御姉さんと遊ぼうよ」
ヒノエがお得意の口上を返しきると、藤崎はしかめ面を隠しもせず、黒ビールを一気に飲み干した。赤い髪をいきなりかきむしられて、ヒノエは声も上げられない。
「帰るよ、藤原」
「なんで、まだいいじゃん」
しかし藤崎は有無を言わせなかった。無言で腕を掴み――ピアノを弾く人間はこんなに握力のあるものなのだろうか――ペリエのビンを奪ってさっさと歩き出した。
「ちょ、先生!」
「煩いよ、ガキ」
「……なっ」
乱暴にドアを開けてヒノエだけ外に放り出し、にいと藤崎は笑って言う。
「子供はここまで。これからはオトナの時間なの」
その笑顔がなんだか――藤崎本人の顔のようで、閉じられるドアを呆然と見ていることしか出来なかった。
ヒノエがヒノエじゃねぇ!
もうちょい煮詰めたいです。
いやほんとすいません
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